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武蔵野航海記

武蔵野航海記

仏性

今朝、小屋の中でタローが死んでいました。

夜遅く、板と物がぶつかる大きな音がしてタローが低く吼えたのですがそれきり静かになりました。

今朝おきて小屋を覗いて驚きましたが、何か発作が起きたのかもしれません。

来月11歳になるという老齢なので、寿命が尽きたということかもしれません。

獣医に連れて行って爪を切り、シャンプーをして予防注射をしようと思っていた矢先でした。

さらに四本足で歩くべく最後のリハビリもしようと考えていたのです。

最近は私が帰ってくると三本足ながらも走って寄ってくるなどすっかり元気になっていたのに。

タローを棺にいれ自転車に乗せて、堤防沿いの道で野辺の送りをしました。

堤防一面に菜の花が咲いていてとても美しかったです。

タローの棺にも菜の花をたっぷり入れてあげました。

一緒に遊んで楽しかった10年を振り返って涙が止まらなくなりました。

昨年末のタローの交通事故をきっかけに生き物の魂ということを深く考えるようになり少しづつ考えがまとまってきた矢先にタローに逝かれてしまいました。

タローは私に生き物の魂のことを考えさせるために生まれ死んでいったようなものです。

次回から私の考えをすこしづつ整理しながら書きたいと思っています。

タローの死は本当にあっけなく、前の日まで元気だったのです。

昔は人間もあっけなく死んだものです。

源氏物語などを読んでも、すこし鬱積が溜まったり風邪をひいたりするとすぐに死んでしまい、死が日常的に身近にあるので死ぬことを何時も考えているといった様子です。

極楽浄土や地獄といったことを真剣に考えていたのももっともだと思います。

野生動物などは餌を捕まえることができなくなったり、天敵につかまったら死ぬしかないわけで、死と隣り合わせの生活です。

人間も含めた生き物の本来の姿というのは、あっけなく死ぬもののようです。

一方、最近の人間というのはなかなか死にません。

なまの死体を見ることもありません。

死体が道路に捨てられているということはなく、たまに身内が死んでもきれいに死化粧されています。

死を身近に感じることが出来ない環境になってしまっています。

死を身近に感じることが出来ないと人間は精神的に虚弱になるようです。

戦後の日本で思想的にすぐれた業績を上げた人は、現在80歳代以上というのが大部分です。

彼らは敗戦の時に20歳代でそれこそ死と隣り合わせの生活を送っていたわけです。

それより若いと戦前生まれといっても、戦争中は子供だったわけで思春期が戦後ですから、その発想の根底に「死」というものを持っていません。

私も過去何人も身内や友人の死を経験していますが、全て亡くなってしまった後電話で報告を受けただけで、死ぬ現場を目撃したことはありませんでした。

「死」を生で体験したのはタローが初めてだったのです。

今回のタローの死で私が「諸行無常」を感じ仏教の教えにのめりこんで行ったのではないかと考える方が読者にいるかも知れませんが、そういうことはありません。

人間も含めた生き物というのは徹底的に不平等に出来ています。

鰯(いわし)の群れをカツオなどの大きな魚、いるか、海鳥、更には漁師が襲い掛かります。

鰯はそれこそ必死に逃げまわっており、彼らの一生は敵から逃げに逃げて最後には食べられてしまうというものです。

大きなさめや鯨は襲い掛かる敵も無く悠然と大洋を我が物としています。

鰯とさめや鯨が平等だということはありえないのです。

人間でも、容貌の美醜、体の頑健さ、頭の良さという生まれつきの素質に大きな差が有り、更には階級や財産などの社会的な差別があります。

人間が互いに平等だというのは、とんでもないウソです。

奴隷制度やカースト制度が厳存する徹底的に不平等な社会を変えようとして起きた宗教が、キリスト教や仏教です。

しかしキリスト教や仏教は現実社会の不平等を是正しようという社会運動ではなく、こういう社会的な不平等は幻であり意味がないと主張しただけです。

人間の魂も善いものと悪いものがあってその価値は同じではないのであって、人間の魂でさえ不平等だということを認めています。

キリスト教や仏教が言いたかったのは、人間の現世での不平等は一時的なことであり心の持ち方によって幸せになれるということです。

決して人間が全て平等だとは言っていないのです。

ただ、奴隷も王侯も全て死ぬし悪いことをすれば地獄に堕ちるという点でも同じで、つまりは神のルールは平等に人間に適用されるのです。

こういう神のルールは平等に適用されるという意味の「平等」を、社会制度に応用したのが西洋近代の市民革命です。

庶民はパンを盗んでも牢屋に入れられるのに王侯が人を殺してもお咎めが無いというのは、神のルールの平等な適用に反するではないかということです。

結局、西洋近代革命の「平等」というのは「法の下の平等」ということであって、決して持って生まれた素質などが平等だと言っているわけではないのです。

お釈迦様は「殺生」を禁じていて肉や魚を食べてはならないのですが、米や麦などの植物は食べても良いのです。

それは植物が生物だとは考えていなかったからで、動物と植物が平等だとは思っても見なかったのです。

当時のバラモン教では、バラモンという最高階級の者しか救済の可能性がないという宗教的にも人間は不平等だというものです。

それをお釈迦様は、「カーストの階級に関係なく修行をすれば解脱できる」という意味で平等を唱えただけです。

また人間と動物が同じ価値を持つとも言っていません。

つまり、キリスト教も仏教も全ての人間が平等だとは言っておらず、ましてや人間と動物が平等だとも言っていないのです。

キリスト教や仏教は、生きている人間同士が平等だとは決して言っていないし、人間と動物や植物が同じレベルにあるとも言っていません。

ところがキリスト教や仏教の教理を利用して、人間の平等や動植物と人間は同じレベルだという説が出てきました。

西洋ではキリスト教の教理を利用して、人間の権利と義務はどんな人でも同じになるべきだという方向に進んでいきました。

ただし人間と動物が平等だということには一切なっていません。

この西洋流の発想は「民主主義」という名前で日本にも押し寄せています。

仏教ではこれとは全く違った方向に進んでいきました。

仏教のもっとも基本的な考え方は、「実在するものは無い」というものです。

「他に依存することなくそれ自身で存在し、永遠に変わることがない」というものは存在しないのです。

このことから魂も実在しないという結論が出てくるわけで、どんな宗派でも魂の存在を正面から認めることはありません。

その一方で輪廻転生という現象は認めています。

輪廻転生というのは永遠に存在する魂が次々と新しい人間に生まれ変わるという考え方ですから、魂が実在しなければなりたたない発想です。

こんなわけで仏教では輪廻転生の理屈付けに非常に苦労しています。

また仏教は悟りを開いて輪廻転生の苦痛から脱却すること(解脱)を目的としていますが、これには厳しい修行が不可欠です。

厳しい修行を出来るのはプロの僧侶だけで俗人には無理ですから、結果的に解脱出来るのは僧侶だけになってしまいます。

実際に小乗仏教ではこの考え方です。

しかし大多数を占める俗人が救済されないというのは現実問題として困るわけで、なんとか修行できない俗人も救済される方法が考え出されました。

これが大乗仏教で、「仏性」というものを考え出しました。

どんな人間も等しく「仏性」を備えているので、厳しい修行をしなくても簡単なこと(例えばお布施をするとか、ありがたい説教を聴くとか、南無阿弥陀仏を唱えるとか)で救済されるというものです。

魂は実在しませんから「仏性」は仏の魂ではありません。

ダルマ(宇宙のルール)とでも言うべきものだと私は思っています。

あらゆる人は宇宙のルールを内に秘めているので、外部からの働きかけに仏性が反応し救済されるわけです。

仏教の教えでは魂は実在しませんが、この考えは哲学的な思索の結果によって得られたもので凡人の常識に反します。

また魂が実在しないのに輪廻転生はあるというのもどうにも納得できません。

特に日本では仏教が入ってくる前から、神道の教えによって一種の輪廻転生思想がありました。

人が死ぬと魂は近くの山に行きたまに里に帰ってくるのですが、この発想がそのままお盆やお彼岸になっています。

そして母親が妊娠すると先祖の魂が集まって会議を開き、その中からこんど生まれてくる子供に生まれ変わる魂を選ぶのです。

つまり子供とはご先祖様の生まれ変わりなのです。

古代の日本人は魂の存在を信じていて、これと仏教の輪廻転生思想が結びついたのです。

魂が実在しないという哲学的な結論は、仏教を学んだ人だけが知識として持っているだけで庶民や僧侶までもつい最近まで魂は存在すると信じて疑いませんでした。

今でも定期的にお墓参りはするしテレビの怪しげな怪奇番組が流行っているわけで、現代の日本人も伝統に忠実に古来からの霊魂観を持ち続けています。

人が死んでも魂は残ると信じている日本人が「仏性」を考えると、「仏性」と魂を混同してしまうのです。

インドで興った大乗仏教がいうところの「仏性」というのは魂ではなく哲学的な思索の結果の価値体系を意味するものでしたが、日本人はこれを「善い魂」と考えたのです。

この考えを端的に表現したのが江戸時代の大思想家であった石田梅岩です。

彼は人間は二つの「心」を持っていると考えました。

欲にまみれた「自分の心」と「本心」です。

無欲になって自分の心を見つめると二つの心が近づきついには一つに重なります。

この状態が正しく「あるべきようは」の状態です。

つまり人間は個々の心の他に他人と共通する「本心」を持っています。

だからお互いが自分の欲をいったん脇に置き「相手の立場に立って」話し合えば、互いの「本心」が触れ合って正しい結論が出てくるのです。

このように日本人は、全ての人間は「本心」という同じ魂を共有していると考えるようになったのです。

ここから日本人独特の平等観が生まれました。

日本人は大乗仏教でいう「仏性」というものを、自分の心の中にある正しい方の魂と理解してしまいました。

そしてそれに「本心」という名前を付けています。

この「本心」というのは、無欲・無我の状態で表面に出てくるのですが、煩悩が湧いているときは奥に引っ込んでいます。

自分が持っている「本心」と全く同じ「本心」を他人も持っているので、お互いが「本心」を顕して付き合えば全てがうまくいくのです。

さて大乗仏教でいう「仏性」というのは始めは人間にしか備わっていないものでしたが、後には動物にも備わっているということになっていきました。

この「仏性」の考えが日本に入ってきて、「仏性」は人間や動物だけでなく植物や月や山川などの自然物も「仏性」を持つというように範囲が拡張されていきました。

これは天台宗が「天台本覚論」で主張していますが、華厳宗の明恵上人も同じことを言っています。

原始人は全てのものに魂が宿っているというアニミズムを信じていたということですから、この全てのものが「仏性」を持っているという考えは古代の日本人にも素直に受け入れられたのかもしれません。

人間・動植物や自然物はみな同じ「仏性」=「本心」を持っているのです。

自分は「仏性」を通じて大自然と一体になっているわけで、「自然の中に自分のいるべき正しい場所がある」という「あるべきようは」とつながっていきます。

自分の中に個性・素質を持ち打算的な「自分の魂」と「本心」の両方を持っているわけですが、「自分の魂」を抑え「本心」に従うのが正しいと考えられているのです。

他人や動物は自分と同じ「本心」を持っているからみな平等だということになっていくわけです。

個性を表に出し自己主張するというのは、「自分の魂」に従って行動しているわけで「本心」に逆らっている状態です。

日本人は個性を出したり権利を主張することを悪いことだと考えていますが、こういう奥深いところからやってくる感情です。

日本人は何か悪いことをすると、自分のしたことを弁護せずにすぐに謝ってしまいますが、これも同じところから来ています。

自分のしたことを反省し、「本心」に反したことをしてしまったと認めるわけです。

そうすると被害者は、悪いことをした相手も「本心に立ち返った」たまともな人物に戻ったことが分かるのです。

そうなれば相手は今後は悪いことをしないので、起きてしまった行為をそれ以上あげつらう必要は無くなり全てを「水に流し」ます。

日本では犯罪を認めれば刑罰を受けずにすむのです。

日本人の親が子供に「すぐに謝りなさい」としつけるのはこういう理由です。

これは絶対に自分の非を認めようとしない欧米人や支那人からは「バカではないか」と見られます。

自分の非を認めることは、刑罰を受けるということであり賠償をしなければならないからです。

日本の裁判が、被告が反省しているか否かを重視しているのも同じ理由で、すぐに執行猶予を付けて被告が「本心に立ち返る」時間的猶予を与えます。

実刑に服していても「模範囚」になると刑期を残してシャバに出てきます。

「仏性」というのはもともとは哲学的な思索の産物で、全ての人間が内に秘めているというものでした。

それが日本に入って、煩悩にまみれた自分の魂とは別の「本心」という正しい魂というように変わりました。

そしてこの大自然と一体になった正しい魂は人間だけでなく、動植物や山川・月といった自然物も等しく持っているものだとなったのです。

こういうようにインド発祥のものが日本式に変わってしまった原因のひとつは、仏教が魂の存在を認めないからです。

「他に依存せずそれ自体で存在し永遠に変わらない」という実在を認めないので、永遠に輪廻転生する魂も認めるわけにはいかないのです。

もしも仏教が魂の存在を認めていれば、魂はそれぞれが個性を持ち素質も違うので、個性を無視した「皆同じ」というようにはならなかっただろうと思います。

ところが個性を持ったそれぞれの魂は煩悩にまみれた悪い魂ですから抑えなくてはならず、皆が共通に持つ「本心」に従わなければならないことから個性を発揮することがよくないことになってしまったのです。

死後も魂は存在し続けるのではないかという思いは、皆が否定できないものです。

どうやらここに問題がありそうです。

ヨーロッパは2500年前のギリシャ時代から、「実在」を巡って考え続けてきましたがまだ結論が出ていません。

仏教は「実在するものは無い」と断定していますが、心から納得した者はほとんどいません。

そもそも「実在」を論理的に証明することは出来ないのです。

ですからルソーのように正直に「私は神の存在を感じるのだ」と情緒的に結論だけを出すのもやむを得ないのではないかと考えます。

私自身について言えば、永遠に存在する神というものは存在すると感じています。

そうして魂というのもあると思っています。

私はタローが交通事故で瀕死の重傷を負った時に「仏性」を感じたのではないかと考えましたが、いま振り返るとタローの魂と私の魂が触れ合ったのではないかと思うようになりました。

私が20歳前後の時、家にモンタというレトリバー系の犬がいました。

私が学業を終えて家を離れ社会に出て行く間際に面白い現象が起きました。

モンタを連れて散歩に行くと、突然私は物悲しくなるのです。

寂寥感というかどうにも耐え切れないほど苦しい感情が沸き起こってくるのです。

そしてその瞬間モンタも悲しそうな顔をして私の足に抱きついてくるのです。

そういうことが何度かあった後に私は家を離れたのですが、その後モンタが病気で死んだという知らせが来ました。

今にして思うと、モンタにまず悲しい感情が沸き起こってそれが私に伝わって私が悲しくなり、私が悲しくなったのでモンタも更に悲しくなって私に抱きついたのでしょう。

今回タローが事故に遭った際も同じ現象が起きました。

よく鳥や花と話を出来る人がいると聞きますが、私はこれを否定できません。

人間と動植物は交感できるのだと私は信じています。

これは人間も動植物も魂を持っているからです。

「人間や動植物は魂を持っているか」というのは哲学的な課題で今までまともな証明はできていません。

仏教の教理ではそんなものは実在しないとしていますが、納得する人は少ないです。

ですから主観的に個々人が判断するしかないわけで、私は存在すると主観的に判断したわけです。

魂というのはそれぞれが別個に持っているものですから個性があります。

魂の存在を認めるということは個性を認めることなのです。

それを表向きは魂の存在を認めないのに、現実的にはその存在を認めるために出来た理論が「仏性」です。

「仏性」というのは全ての人間や動植物に共通のもので個性がありません。

これによって日本人は個性を否定するようになったのではないかと最近私は感じています。

ものには良い面と悪い面があり、「仏性」というのは美しいものでこれを感じることによって人は人間や自然にやさしくなれます。

その一方で、個性とか権利と義務・責任という概念があやふやになり、社会的なメリハリがつかなくなります。

この「仏性」の問題は割合最近になって気が付いたことで、もっともっと深く考えていかなければならないのですが、最近私はこのように考えるようになりました。



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